お読みいただきありがとうございます。
AISA(アイザ)という制作会社を営む小林渡といいます。
ミャンマーの人々を応援する有志の会のウェビナーやYouTube Liveなどの配信まわりのお手伝いをしています。
恥ずかしながら、私自身はミャンマーとの縁はそれほど強くはありません。
始まりは2004年、「ミャンマー辺境映像祭」という映像イベントの実行委員長を引き受けたところから始まりました。当時はまだ軍政下だったことに加え、ネット上にはYouTubeもなく、Facebookも誕生したばかり。世界各地の動画がインターネットで見られる今とは異なり、ミャンマーの辺境地域の映像や写真といったコンテンツは非常に珍しいものでした。「チン州の山並みや、ナガの石曳き祭りの映像を使ってイベントをやろう」と言い出した知人2人は、どちらも海外在住の経営者で、準備や集客を含むイベント実務を任せる相手として、私を実行委員長に指名したのです。
ところが、ふたを開けてみればイベントの構成はおろか、映像の編集までほぼこちらに丸投げ。その上「メインゲストには辺境作家、高野秀行先生が来てくれますから!」といわれたものの、当の高野さんからは前日になっても連絡がありません。
「これで高野さんがこなかったら、いったいどうしたらいいんだろう……」
頭を抱え、途方に暮れながら当日を迎えました(しかも、映像編集は朝までかかりました……)。
果たして当日。
幸いにして高野さんはリハーサルの時間に現れ、会場にはミャンマーや高野さんの著作を愛する熱心な辺境ファンが200名近く集まり、それはそれはすごい熱量でした。
結果的にこれが高野秀行さんとの出会いとなり、高野さんのホームページやブログをつくったり、自転車旅についていったりしたほか、昨年からは本の雑誌社の杉江さんと一緒に「辺境チャンネル」を立ち上げて、高野秀行隊長の作品を掘り下げるオンラインイベントを行ったりしています。
ひとまず話を戻しましょう。
そんな経緯で始まったミャンマー辺境映像祭ですが、しばらくすると2回目の話が立ち上がります。
当然のように「再度実行委員を……」との打診が来たので、思わず私は「いくらなんでも、実行委員長がミャンマー行ったことがないのはどうかと思う」と返したのです。ところが敵もさる者、まったく思いもしなかった言葉を返してきました。
「じゃあワタルさん、ミャンマー来てくださいよ。うちで手配しますから」
そのひと言でミャンマー行きが決まりました。2006年のことです。
隣の村から見たミンダッ。尾根の街道沿いに家が並ぶ
旅の手配は、ミャンマーの辺境地域を専門に扱う旅行会社のK社長が直々にやってくれました。この段階で嫌な予感しかしなかったのですが、ふたを開けてみれば、案の定、チン州にある標高3,053mのビクトリア山トレッキングツアーができあがっていました(しかも、季節は雨季!)
トレッキングのスタートはミンダッと呼ばれる田舎町。山の稜線上にあり、一本道の左右にあるわずかな平地に家や商店が建ち並び、学校や寺院もあるのどかな場所でした。夜になると、外灯もないためまっ暗闇で、電球やロウソクのわずかな光が頼り。でも、夕食を食べ終え外に出ると、今まで見たことのない満天の星空が広がっていたのでした。
夜は宴会。お酒を酌み交わすと、ぐっと距離が縮まった
さて、K社長に押し切られる形で進行したチン州・ビクトリア山トレッキングツアーでしたが、ふたを開けてみれば雨に降られたのは1日のみ。ヒルにもほとんどやられず、地元のどぶろくでお腹を壊して山頂で寝られぬ夜を過ごした以外は、おおむね順調でした。
その間、ガイド兼通訳のルーインさんはじめ、ポーターのシュエターやローシュエ、食堂のおばさん、泊めてくれた家の人たちなど、多くのミャンマーの人々に会い、お世話になりました。
短い間ではあったものの、彼らと一緒に過ごす時間はとても素朴で豊かなものでした。
ミンダッの翌日訪れた村の人たちも、裕福ではないけれど衣食住最低限のことは整っていて、きっと昔の日本ってこんな風だったのかもしれない……そんなことを思いました。
あれから15年。
ミンダッの町や途中で訪れた村は大きく変わったことでしょう。
特に、2011年の民主化以降、スマートフォンを中心としたインターネットの普及によって、山の民だった彼らの暮らしも大きく変わったはずです。
Googleマップを使い、久しぶりにビクトリア山の山頂を見てみました。地図とともにいくつか写真が投稿されていて、山頂のパゴタやあずまやがそのままの姿で残っていました。と同時に、マウンテンバイクやオフロードバイクとともに写るミャンマー人たちの姿もあり、この場所が、彼らの楽しむ場所に変わったのだと、はっきりわかりました。
15年前のビクトリア山山頂
今回、国軍が起こしたクーデターは、ヤンゴンやマンダレーといった都市部だけでなく、少数民族の暮らす地方の町や村にも大きな影響を与えています。先日は、軍がミンダッを兵糧攻めにしているというニュースも入ってきました。
はにかみながらも、遠い国から訪れた日本人の私にやさしく、親切に接してくれたミンダッの人たち。
彼らの身の安全と思うとともに、この茶番といえるクーデターを早く終わりにしてほしい……。
そのためになるのであれば、日本の自分に今できることをしたい……。
私がこの会のお手伝いをしているのは、その思いからです。
6月6日、ミャンマーの民主化を支援する議員連盟の主催で、ミャンマーの人々を応援する有志の会が配信を担当したZoomとYouTubeLiveは、基調講演にミャンマーの民主化の星、Dr.Sasa国際協力大臣が登壇しました。Dr.Sasaの出身は奇しくもチン州。
彼の堂々とした講演に、チン州で会った人たちの未来の希望を見た思いがしました。
※Dr.Sasaについては、こちらに生い立ちをまとめた記事があります。よかったらご覧ください。
(2021.06.12)
15年前当時のチンの子どもたち。今どうしているか…
筆者プロフィール
1974年長野県箕輪町生まれ。編集者。伊那北高校、専修大学、日本盛、ドレミ楽譜を経て2004年に有限会社AISAを起業。2017年、伊藤檀「自分を開く技術」でサッカー本大賞優秀作品賞・読者賞を受賞。府中市NPO・ソーシャルビジネス個別相談アドバイザー。NHK趣味の園芸テキスト、墨の編集。