2021年2月1日のクーデター発生から5ヶ月が過ぎた。
報道やSNSで観るヤンゴンの街はバスやタクシーが走り人々が行き交う様子から一見「普通の街」に思える。それでも毎日どこかで爆発事件が発生し不当拘束も続き人々の表情の硬く平和とは程遠い。
一方、カヤー州やチン州など少数民族地域では重火器や空爆による軍の虐殺、迫害が続き人々は村を追われジャングルに逃げて支援も軍に阻まれるなかで必死に生き延びている。
私がミャンマーへ行き始めた2005年は「軍事政権下」だった。
そして2011年ごろから軍の傀儡政権による「民主化プログラム」が始まり、海外投資を呼び込むためアウンサンスーチー氏の軟禁を解き、政治参画を認め民主化は順調に進んでいるように見えていたが10年が経ち、現実はご存知のとおりだ。
そのような状況で、私は前の軍事政権下で見聞きし感じたことを思い出している。私はジャーナリストでも研究者でもなく、ミャンマーで暮らした経験も無く年に1度か2度訪れて写真を撮っているだけで、あくまで私個人の記憶と体験ということで読んでいただければ幸いである。
そのころ、友人から聞いたこと。
「街中でアウンサンスーチーさんのことを話したり、名前も口にしないでください」
軍が軟禁しているくらいだから、そうなんだろうなと納得。
「飛行場や駅、役所、軍や警察関係の施設ではカメラはしまってください」
これもよく言われる話だ。
「国内線のフライトは1時間半前には空港へ行きます」
これは理由が分からず聞くと「軍のお偉いさんが乗ると、定刻前でも出発してしまうからです。彼らは並ばずに乗るのでそんなに早く来ることは稀ですが、30分くらい早くなることは何度かありました。だから余裕見て空港へ行く必要があります」
その話をした方は月に数回国内線にのるので、40分くらい早く行ってしまい、乗り遅れた経験があると話していた。
「携帯を真っ当な方法で持とうとすると3,000〜5,000米ドルかかります」
当時、日本では3Gが普及し、殆どの人たちが携帯電話を持っていた。
1988年の民主化デモなどの経験から軍政は人々が集まり徒党を組むことを極度に嫌うため、一般の人たちの通信手段を制限していた。
「パスポートを真っ当に取ろうとすると膨大な書類と5,000米ドルくらいかかります」
若い人が海外へ出て学び、働こうと思うことすら出来ない。「真っ当な方法」と書いたのはそうではない方法が有ったそうだが、詳しいことは分からない。
「私は出生もあいまいで少数民族の出だから一生懸命、陸軍で働いてきたが出世できず、恩給も暮らせるほど貰えない。ビルマ族の若いやつがどんどん出世していったが、俺の働きはあいつらより悪いことは無かったと自信を持って言える」
インレー湖のファウダウンパゴダで軍服を着たマンダレーから来たという初老の男性が英語で話しかけてきたときの言葉。
このころ、お寺や食堂などで軍関係の人がいることは珍しく無かったし、男の子に将来の夢を聞くと「(国軍の)軍人」と答えることが多く、“憧れの職業”だっだ印象がある。
ミャンマーへ行き始めたころは、ヤンゴンの街でもインレー湖の村でも、市場や店に行くと商品はあるし、学校からは子どもたちの声が聞こえるし、道ですれ違うときに控えめに笑顔をみせてくれるし、軍事政権と言われてもビザ取るのが少々面倒なくらいで現地でそれを意識したことは殆どなかったが、写真を撮りながら話を聞くなかで「軍事政権」の実態を少しずつ知ることになった。
ある日インレー湖の友人(ホテルやレストランを経営していた)たちとピンダヤへ行ったとき、日帰りの予定が泊まろうとなり、友人がホテルへ英語で電話をしていた。電話を終えたときに私は「ホテルの知り合いは外国人ですか?」と聞いたら「彼女はミャンマー人だよ」との答え。「いつも英語で話すの?」と私。少し間をおいて「電話は誰が聞いているか分からないから、英語の通じる相手とは英語で話をすることが多い」ということだった。
このころミャンマーでは携帯電話の普及は程遠く、街中に公衆電話は殆ど無かったため電話は雑貨屋などの店先に置いてあり、それを借りて通話が終わると料金を払うシステムになっていた。私も時々利用していたが、話していると誰かの話声や、何かを切り替えるようなブツブツという音が聞こえた記憶がある。
ホテルに着くと友人は当時のミャンマーについて私に話をしてくれた。
電話だけでなく私達は常に誰かに監視されている。
ホテル経営を続けるために役人やその上の軍に気を使いお金を使わないとならない。
ホテルの部屋を1つ増やすための許可を得るため何度も役所に行くし突然役人がホテルに来て宿泊費を払わずに泊まっていくこともあると。
賄賂に関しては2016年に同じ地域の村のリーダーに話を聞いたとき、軍政時代にくらべ賄賂はほぼ無くなり役所の対応も良くなったと話していた。仮にも民主化に国が変わり始めた結果なのだろうと、その時は素直に受け止めていた。
翌日、帰る途中に寄った小学校で子どもたちは校庭を走り回っていたが、私達を見ると我々が通る道を作って両側に並んだ。
友人が一言二言話すと子どもたちは各々遊びに戻った。校舎に入り通された部屋の壁にはアウンサン将軍(スーチーさんの父親)の肖像画があった。
少し驚いたが、校長先生は「軍の言う教育では子どもたちの未来は無い。私はできるだけのことは子どもたちに教えたい」と熱く語っていた。さっき子どもたちが整列したのは理由も分かった。役人や軍が来ると全校生徒で校庭に道を作るように両側に立ち出迎える決まりで、子どもたちは見知らぬ大人が来た時点で条件反射のように動いたとのことだった。
教科書を見ながら先生たちの話を聞くと、全科目暗記詰め込み、言われたとおり覚えさせる教育で自らの考えを意見したり議論は無い教育だと知った。加えて、日本の音楽や図工、家庭科、道徳などに相当する科目は無い。自分が子どもの頃、これらの科目の重要性、必要性を意識したこと無かったが、ミャンマーへ行くようになり、必要な科目だと考えるようになった。
軍事政権下の暮らしは旅行者が観光地を巡りホテルに泊まりレストランで食事をしている限りでは普通に見えると思う。私にも最初そう見えていた。しかし監視社会による不信感と警察や軍による恐怖が人々の心に重くのしかかり続ける支配に自由は無い。
それでも2011年に始まった民主化、2015年の選挙でアウンサンスーチーさん率いる政党が大勝し政権についたころは人々の心が開放され街を歩く人々の表情も明るくなった印象を持っていた。私は軍政から民主化へ変化するミャンマーの人たちを撮影することを通して人として大切なことなど多くを学び得てきた。
今ミャンマーの人たちは多くの犠牲を払い、賊軍を排除し民主主義を取り戻そうとしている。私はミャンマーの仲間たちが望む社会の実現を日本から出来ることで応援していきたいと思っている。
筆者プロフィール
1966年 12月東京都生まれ。
一般社団法人 ミャンマー祭り 理事、推進委員
日本写真協会(PSJ)会員
2004年 写真家渡部さとるWorkshop参加
2009年 LabTakeモノクロプリントワークショップ参加
2013年 写真集「Thanaka」出版(冬青社)
2018年 写真集「Myanmar 2005-2017」出版(冬青社)